[対話]建長寺管長 吉田正道 老大師 [後編]

いま、欧米を中心に世界中で注目され実践される「マインドフルネス」。禅にルーツをもちながら、世俗の人々の手へと渡りライフスタイルへと浸透しはじめた現代の瞑想法と、伝統の中に脈々と受け継がれ、人類の叡智として磨かれてきた禅の実践について、日本における禅仏教の始まりの地である鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派管長の吉田正道老師にお話をうかがった。後半は座禅を超えてさらに深い、禅の境地を語っていただいた。


吉田正道 老大師
Zen Master SHODO YOSHIDA
臨済宗建長寺派管長 巨福山 建長寺 第240世住持


Zen 2.0 これからますます海外の方が鎌倉にも増えて来ます。それは、私たちが禅とマインドフルネスについての日本で初めてのフォーラムをこの日本の禅が生まれた場所で開こうと決めた大きな理由のひとつでもあります。

吉田 だから私、座禅会をやって、自分は外国語なんて駄目だから、その時に中国語でも英語でも少しはできる人が来てくれると実にありがたいなと時々思う。自分の思いが伝えられる。ただ座ってもらうだけでもええにしてもね。

本来なら、昔、日本人が中国へ渡って仏教を学びに行ったように、日本でわれわれが英語を言うよりか、本当は求める国へ行ってその国の言葉で自分でやるぐらいの情熱がないといかん。宗教というのは実は全部そうなんです。

Zen 2.0  そういった人々が、今は、一般的には座禅会などに来られて座禅を組んで、みなさん日々実践を始めていると思うんです。そういった意味で、禅の中で座禅に加えて、心を集中させる、例えば先ほどおっしゃったゼロにするための日々の実践として、他に欠かせないものはなんでしょうか。

吉田 だから、自分の生活自体を律するということです。

Zen 2.0 それは、先ほど日々決めたら毎日やりなさいということをおっしゃいましたけれども。

吉田 例えば食事なんかでも、食べ出したらそれを残さないとか捨てないとか。やはりそういうものと自分が一体であるという心持ちでやらんといけませんわな。余分なことをやったらいかん。物を捨てたりロスをしんように。自分を律していくんです。

Zen 2.0 自分を律していくと、シンプルになっていくということなんでしょうか。

吉田 そうなんです。だから、例えば座禅をしても、本当にそういうことをしていけば、もっと素直にずっといけるようになるから。少しでも悩みを少なくするんですよ(笑)

Zen 2.0 自分を律して日々の生活をしていけば、そういう余分なものがなくなっていく。

吉田 そういうことなんです。

Zen 2.0 それは、悩みみたいな心の中のものもそうだし、食事みたいな実際のものも同じだと。

吉田 そういうこと。だから、禅では「一行三昧」なんていう言葉がある。「一歩三昧」でもいい。ひとつ我が道を、何をやるにしても、自分が与えられたこと、縁のあることに一生懸命取り組んでいくということじゃ。

Zen 2.0 英語ですと、今、スポーツ選手なんかでイチローなどが言うんですけれども、「ゾーンに入る」という言い方をしますね。

吉田 そうですね。あれは三昧ですわ。

Zen 2.0 あれは三昧ですか。

吉田 そうなんですよ。他のことを考えないということ。他のことが出てこないということな。一生懸命やるから。

Zen 2.0 後から振り返ると「あの時自分は夢中だった」という。

吉田 そうそう。無心になってしまって、あるもの、己、全部が忘れてしまう。それしかない。それもない(笑)

Zen 2.0 本日のお話ですごく印象的だったのが、体を使ってという部分で、イチロー選手もそうですね。

吉田 もちろんそうです。体が基本ですよ。

Zen 2.0 毎日自分を律して体でやれているからこそという。

吉田 私らは師匠に「いいか、理屈なんか覚えんでいいぞ。しっかり体で覚えよ」と言われました。「骨折れ、骨折れ、骨折れ」といってな。

Zen 2.0 骨を折れ、と。

吉田 言われました。「下手な小理屈言うんじゃない、下手な説法をするな」と。私を育ててくれた師匠は、いつも学校から帰ってくると草取りばっかりしてくださった。

Zen 2.0 草取りも無心になりますよね。

吉田 そう。だけど、広い境内大変ですよ。小僧も師匠がやっておられるからといって、やっぱりやらんと悪いからついついやる。

片付けてないやつがよう座禅に来たってどうしようもねえぞ。

Zen 2.0 それでもう一度思ったのですが、海外でマインドフルネスを見ていると、リラックスさせることが多いんです。例えば脚を組まなくても、椅子でもいいし、とにかく体を全部リラックスして、「じゃあ目をつぶって瞑想しましょう」と入っていくんですけれども、それはフィジカルという点からはどうでしょうか。

吉田 究極はリラックスでええんですけれども、ただ、他のことを放っておいてリラックスはなかなかできないよ。そこは自分の生活でものを整えんと。

Zen 2.0 ほっぽらかしちゃってやっていても、結局は自由になれない。

吉田 なれん。私はよく座禅会に来られた人に言うんや。「今日、ここへ座禅に来てまことに結構じゃ。じゃあ、今わしの話を聞いて、ここでストッと死んでも悔いのねえもの、ちょっと手を挙げてみろ」というと、みんな悔いがある。その一番の悔いは、まず自分の部屋が片付いてねえとかいうこと。「片付けてないやつがよう座禅に来たってどうしようもねえぞ」と私はよく言うんじゃ(笑)

Zen 2.0 面白いですね。最後にちょっと大きな質問になりますが、禅において最も美しいものは何でしょうか。

吉田 全部美しいじゃない。

Zen 2.0 すべてが美しいと。

吉田 そうですよ。要は、自然であると。目で見ればそのままということです。ということは例えば、自分の旦那を亡くして悲しんでいる人に、「今は寂しいけどまた何かいいことがある」なんて言ったって分からんわけや。慰めにも何もならんわけや。

それを一緒に泣いてあげるとか、そういうことなんですよ。大病した人に「またいいこともあるから」なんて、全然慰めにならん。一緒になってグッと抱きしめてあげたほうがよっぽどいい。相手と一体になるということです。

Zen 2.0 マインドフルネスの瞑想でも、これは仏教から来ているんですが、慈悲の瞑想というのがありまして。それは、座ってこう考えるんです。

まずは自分が幸せになりますように、次に、例えば周りの家族の幸せを祈り、今度は自分が嫌いな人を思い浮かべて、その人が幸せでありますようにとやるんです。その次には一度も会ったことがないしこれからも一生会わないような人々も含めて、幸せになりますようにと拡げていく。

これがある種、一期一会の慈悲の心、慈愛の気持ちを養うことになっているんですが、要するに、自分の狭い自我の中での世界だけじゃなくて、そこを破った外の人たちにも想像力なり慈悲の心が届くように、ということでやられたりするんです。それについてはどうお考えになりますか?

吉田 だから、慈悲の心というのは全体を自然で見るということだから。自然に見れる。だから、気の毒な人を見て「何とか頑張れよ」なんていうことを言うんだけれども、そんなものは実は慰めでも何でもない。

そうじゃなしに、自分もそれだったら一緒に泣いてあげるとかという、相手と一体になるような。だから、そういう思いを巡らしてもいいけども、思いを巡らしとったら座禅にならない。それはあくまでも妄想じゃ。座る時はしっかり座る。ゼロにしておけばサッサッと動いていけるから。相手の気持ちにスッと入れるから。そこなんです。下手に思いやりなんていうと、あんなものは私に言わせれば妄想なんだ。

Zen 2.0 そうではなくて、もっと実際に一緒に泣いてあげるとか、一緒にやってあげるとか。

吉田 そうなんです。それしかないと思うな。だって、大自然の中でわれわれは生かされておって、いろんなことに出くわすというのは当たり前なんです。だから、その都度その都度こういくんじゃなしに、その都度その都度、自然の目で見ていくような、自然に接していけるようにするということ。これが禅宗の世界です。心の世界。

出くわしたことを全部自分でやれるようにしないかん。好き嫌いは言わないということ。

Zen 2.0 世の中では平和という点でもいろいろなことが今も起こっています。もちろん世界平和と言ってしまうとものすごく大きな話になるんですけれども、一つひとつの場面で、この前のダッカの事件もそうですけれども、どうやって人々は平和というものを考えればいいのでしょうか。

いきなり世界にいっちゃうと大きすぎるし、じゃあ、身の回りのことを考えていればいいのか、それともどうやって国の平和なり自分たち住んでいる場の平和なりというものを考えればいいのでしょうか。

吉田 だから、自分以外の人を平和にして、世界中を平和にしようという気持ちは分かるんだけど、まず自分が基礎的なことがきちっとできてないと、そこに自分で「こうすればいい、ああすればいい」なんていう悪い判断が出る場合がある。この前の事件だってそうでしょう。経験の足らんやつがあんなことをするからおかしい。本当の意味の信仰をしっかり持ったやつやったらあんなことはやらんはずやから。

Zen 2.0 そうですよね。

吉田 だから、人間というのは失敗は必ずあるんですから、それを必ず自分でよくよく見てみて、冷静に考える力というのは、やっぱり座禅か宗教の力じゃからな。

Zen 2.0 人々がそうやって、例えば座禅をして、宗教の中で自分を律するやり方を身につけていく、その一人ひとりの態度が平和に繋がっていく。

吉田 そうなんです。だから、出くわしたことを全部自分でやれるようにしないかん。好き嫌いは言わないということ。そんなことをいうたら、座禅やとか何やとかいうたらこれも執着だからな。

Zen 2.0 座禅が、座禅が、となっても、それはそれで執着なわけですね。

吉田 一応仮として言うけどね。そうなんですよ。

Zen 2.0 さきほどおっしゃったように、例えば日々の食事でだって、同じように心持というのは持てるということですか。

吉田 だから、人間なんていうのは千差万別だから、同じ兄弟だって同じ親子だって同じことに出くわしてるわけはないんだから。全然違うんだから。だからありがたいんです。だから磨けるんです。そこをちょっとボタンをかけ違えると損得になってしまうからおかしくなっちゃうな。だから、常に冷静に持っていくために、みんな信仰というものがあるんだからね。

Zen 2.0 信仰というものが一つ自分を進めていくための柱になってくれるという。

吉田 そうなんです。手っ取り早く言えば、自分を励ますものだと思えばいいです。

Zen 2.0 信仰ということで言えば、例えばキリスト教というのも相当に概念的な宗教だと思うのですが、クリスチャンの方々でも今、実際に座って瞑想することで、体を使ってもう一度、自分の心の中に入っていこうとされています。

吉田 だから、私が言うのは、お祈りの時に姿勢が悪いと言うんじゃ。姿勢を伸ばしてやれと。こんなふうにやるなって。姿勢を伸ばしてやれ。そうしたら神と自分と一体になれると。神は天にましますものやと思うからいかん。自分も神なんだから、無心になった世界は。

Zen 2.0 そういった意味では、今みなさんが座禅を組んで無心になろうとしているというのは、いい流れになっているということなんでしょうか。

吉田 いいことなんです。そうなんです。だからおみえになるんだと思います。

Zen 2.0 宗教という枠を超えて、みなさん禅の中に入ってこようとしています。つまり禅というものが他の、例えばキリスト教だ、仏教だ、イスラム教だというよりも、もうちょっと広いプラットフォームになっているように思えるのですが。

吉田 もともとが中東あたりから宗教というのが全部出たでしょう。

Zen 2.0 一神教が特に。

吉田 全部基本はそこなんです。初め教祖は全部そこを目指したんです。言うたら徹底した人なんです。布教の方法がちょいちょいと変わってきたものやから。あと、弟子のところがちょいちょいと間違ってきたからおかしくなってきてしまっただけのこと。真理は一つなの(笑)

無我。我はない。無想。かたちはない。そこが究極ですから。

Zen 2.0 宗教になって、布教の時にちょっと変わってきてしまった。

吉田 そうですね。やっぱり人間だからな。

Zen 2.0 オリジナルの教祖のところに遡れば、やはりみなさん体も使って、ゼロになろうとしたと。

吉田 そうです。だから、素直に礼拝しておる時は、そういう欲念はないはずやから。だから、私がパキスタンに行った時も、モスクやあちこち行きましたけど、一緒に礼拝して、いい気持ちですがな。教会行ったら必ずこうやって祈るけれど。

Zen 2.0 そこにやはりコアの部分は同じだという感覚を持たれる。

吉田 そうなの。だから、我が我がと思うからいかん。無我にしてしまえばいい。無我。我はない。無想。かたちはない。そこが究極ですから。

Zen 2.0 なるほど。

吉田 ただ、これを世間の人にな、何もない、損も得もないなんて言うと、みんなついてこない。何か欲しいから(笑)

Zen 2.0 やはり実利が……。でもそういう意味では、結局モノが溢れてしまって、消費社会も行き尽してしまった後に、より多くの人が、何か見返りがあるからというよりも、自分の中を見つめていくということに目が向いてきているようです。

吉田 だから、私なんかは非常にうれしいわけや。

Zen 2.0 この建長寺さんにも世界中の注目がますます集まってくると思うのですが。

吉田 注目うんぬんというよりかは、大半のものが、日々の暮らしというものがあるから、そう理想論ばかり言うとられんけども、根本はそこなんです。それを忘れたらいかん。

Zen 2.0 そこだけはブレない。

吉田 そこがブレたらいかん。どの宗教も一緒です。

Zen 2.0 宗教がいくら違えども一緒だという。

吉田 どの宗教も一緒です。ブレんようにしないかん。

Zen 2.0 そこが同じなんだということが、禅の懐の深さと言いますか。他の国、他の宗派の方でもここにやってくるという。

吉田 自然なんです。そうなんです。無縁の世界ですから。

Zen 2.0 非常にいいお話を伺えまして、大変ありがとうございます。